小林多喜二「蟹工船」【イズミの書評#58】

はじめに:権利奪還への道

今日、やたらブラック企業だのパワハラだのセクハラだのという言葉が話題になっています。当然、是正されるべき問題です。日本の労働者たちの権利は世界の先進国に比べても低く、早期の解決が求められます。

しかし、法律や憲法では労働者の権利はある程度保証されています。労働時間を一日八時間(内有給の休憩一時間)と規定する労働基準法や、憲法にも明記されている児童労働の禁止など、守られているかどうかは別として現行の日本の憲法や法律にはしっかりと、労働者の権利が明記されています。

ところが、そうした労働者たちの権利を守るための法整備は、昔から行われていたわけではありませんでした。今日扱う本が題材にするのは戦前、大正時代から昭和初期にかけてです。労働者たちの権利は保証されておらず、働かせようと思えば雇用主はいくらでも労働者を働かせることができました。

そうした環境の中、特に劣悪とされた働き場所が「蟹工船」でした。オホーツク海に乗り出してタラバガニを捕獲し、その場で加工する機能を備えた船です。これは、ある事情から労働法規の適用外となり、劣悪な環境で労働者を働かせることが可能となります。

この物語は、そんな船で働かされている労働者たちの物語です。権利を取り戻すべく、あらゆる手段を尽くして権力に立ち向かいます。

「おい、地獄さ行くんだで」

蟹工船、という、今ではもうない船がありました。この船は冬のオホーツク海に出て、カニを取りその場で缶詰に加工する船です。単にカニを取るだけではなく加工するため、「蟹工船」と呼ばれておりました。

この船は、通常の船とは違う特性を持っています。船の中で工作を行う「工船」は、通常の船舶とは異なるため、航海法が適用されることがありませんでした。したがって、どんなに古い船でも使うことが法律上可能となっていたのです。更に工場でもなかったため、労働基準法が適用されることもありませんでした。そのため蟹工船の所有者は、劣悪な環境下で人々を働かせることが可能だったのです。

この船は多くの場合、函館から出発して長期の航海に出て作業を行います。労働者の多くは貧困層の人々でした。

蟹工船の一つ「博光丸」の乗組員も、そのような境遇のひとばかりでした。多くが小学校を出てすぐに働き始めた、函館出身の若者たち。彼らは生活のために、蟹工船が劣悪な環境だと知っていながら働くことになりました。また、東北各地から出稼ぎに来ている百姓たちもいました。彼らは家族を食べさせるために、百姓でありながら漁夫として働いていたのです。

この船も劣悪な環境でした。「糞壺」と呼ばれる乗組員の船室は常に悪臭が漂い、船員は身も寄せ合うような環境下で過ごさなければなりませんでした。

監督の浅川は、労働者たちをこき使いました。彼はそもそも労働者たちを人間扱いする必要がありませんでした。労働者を雇う金より、船を一艘チャーターする金のほうが大事なのです。より多くの利益を得るためには労働者をこき使うことが必要です。彼は朝から晩まで労働者を使い、少しでも働かないものには容赦なく殴りつけました(報告によると労働時間は1日20時間という過酷なものであったという)。

そもそも、蟹工船を経営する東京の人々にとって、オホーツク海ではたらかされた労働者が死んでいくことなどはどうでもよいことなのです。船一つで莫大な利益を得ることこそが重要であり、それ以外のことはどうでもよい。ましてや「蟹工船」は航海法も労基法も適用されない、「素晴らしい」商売なのです。

博光丸はこの世の地獄と化していました。船内は常にオホーツクの寒空に晒されており、船員たちはそこで仕事をさせられます。次第に手足の感覚がなくなり、しまいには意識すらも飛びそうになる。監督は労働者たちをそれでもはたらかせるのです。

「プロレタリア」の意識

そんな中、ボロ船である博光丸はついに転覆してしまいます。すんでのところでカムチャッカ半島に座礁することに成功し、現地のロシア人に救われることとなります。労働者たちは当然ロシア語が話せませんが、身振りを駆使して次第に仲良くなることができます。そして帰るとき、ロシア人が通訳の中国人を介して、あるメッセージを労働者たちに残しました。

「あなた方は貧乏人で、資本家によって働かされているプロレタリアだ。本来プロレタリアは社会を支える尊い存在であるはずなのに、不当に資本家に搾取されている。ロシア人は、日本のプロレタリアが資本家に立ち向かうことを喜ぶ。船に帰ったら抵抗してみるといい。大丈夫、絶対勝つ。」

労働者たちはこの話を聴き、「赤化」のことではないかと思いました。当時日本政府は新興のソビエト連邦を警戒し、反共産主義キャンペーンを行っていたのです。

この話は当然、労働者たちの興味をそそりましたが、実際に実行するまでには至りませんでした。しかし、博光丸にも次第に、雇い主に対抗しようとする動きが生まれ始めます。地獄が続くなら、戦って死んだほうがましであるという動きにつながっていったのです。

「糞壺」の住人はついに動き始めました。ある日突然すべての仕事を中断し、代表が監督の浅川に交渉状を叩きつけます。「ストライキ」を始めるのです。監督はそれでも仕事を続けようとしたため部屋の一室に拘束され、ついに蟹工船は労働者の天下となったかのように見えました。

監督は周到でした。彼は帝国海軍に助けを呼んだのです。海軍は当時、ソビエト連邦とオホーツク海の利権を争っていました。そのため権利を主張するための国策として、法律の網の目をくぐっている蟹工船を黙認していたのです。

帝国海軍は、国民の見方ではありませんでした。駆逐艦が蟹工船の傍に来た際、労働者たちは声をそろえて「帝国軍官万歳」と叫びました。ところが入ってきた水兵たちが拘束したのは監督ではなく、労働者たちでした。全てがあっけなく、簡単に終わってしまいました。

労働者たちの戦い

労働者の味方は労働者しかいない。

こうした単純なことを、蟹工船の人々は知ることとなりました。彼らが最後の希望としていた国でさえ、味方にはならなかったのです。

このまま引き下がるか、もう一度立ち上がるか。彼らの結論は簡単でした。もう一度ストライキを行い、自分たちの立場を貫くのです。プロレタリアにとって生きるか死ぬかの戦いなのです。後先のことなどは全く考えられませんでした。

二回目のストライキは、成功しました。仕事を終えて函館に帰還した他の蟹工船の乗組員も、それぞれストライキを行ったり、共産主義を喧伝するパンフレットが発見されるという結果になりました。

そして面白いことに、あれだけ労働者を働かせていた監督の浅川は、会社によって首を切られてしまいました。ストライキを起こしてしまった責任を取らされたのです。こうして蟹工船を中心に、権利を持っていると意識した労働者たちによる闘争が始まります。プロレタリアが、立ち上がるのです。

この一編は「植民地における資本主義侵入史」…。明治以降に植民された北海道で、資本主義が侵入したことによって発生した、一つの歴史であり、真実の物語です。

おわりに:プロレタリア文学

この物語は、ジャンルとしては「プロレタリア文学」に分類されます。作者の小林多喜二自身も共産主義に強い影響を受け、当時軍国主義化していた中央政府への不信感を募らせていました。自身も共産党に入党し、結果として国に捉えられ拷問の末果てることとなります。当然「蟹工船」も発禁処分を受けることとなりました。

この作品が脚光を浴びるのは、戦後になってからです。舞台化しましたし、映画化も2回行われました。しかし戦後の発展とともに人々が豊かになり、「蟹工船」のような労働環境が想像できなくなっていったからでしょう、次第にこの小説は古典名作の一つに数えるをすぎなくなってきました。

ところが、そんな歴史の一角を担当するはずだった「蟹工船」が再び脚光を浴びることとなります。2008年、『蟹工船』は新潮文庫で40万部を売り上げる異例の伸びを見せます。不況の折、貧困層が増加するという社会状態が再び人々に「蟹工船」を手に取らせたのでした。このころ年越し派遣村が話題になったり、就職氷河期が最大規模となったりしたことは、私たちの記憶にも新しいものです。この年の流行語大賞のトップ10にも「蟹工船」は選ばれることとなります。

そして現在、世界中で労働者たちは世界の渦の中に巻かれようとしています。グローバル企業の台頭や経済の活発化は蟹工船の時代のスケールを遥かに上回る規模で進行しています。

しかし、そうした状態であっても、労働者たちが働き、満足し、家に帰り、家族と過ごす時間というものは不変なものです。今日も世界のどこかに蟹工船はあるでしょう。それを是正すること…決して共産化することを肯定しているわけではありませんが…労働者の権利という視点を徹底的に考えたマルクスに私は一定の評価をしています。少なくとも「労働者の権利を真面目に考える」ことが、社会を「よりよく」することであることに間違いはありません。