川端康成「雪国」【イズミの書評#60】

まえがき:北陸の雪

 文学とはしばしば読む人間を選ぶものらしいと、この作品を読んで感じました。特に川端康成の場合はそうかもしれません。初見で読むにはあまりに幻想的な文章と、比喩表現の秀逸さは文章そのものを美しく際立たせるものの、忙しくせっかちな現代人にはイライラさせるものかもしれません。

 そして、たくさんの前提知識を要求することもあります。「雪国」の場合、どこの雪国であるのか、そして雪国はどのような場所であるのかということをある程度知っておかなければ、そもそもこの作品に入場することが許されません。

 有名な冒頭「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」は、上州から越後間の国境に走っている国鉄のトンネルのことを表しています。トンネルは山脈をはさんで関東、北陸をつないでいるため、気候がまるで異なるのです。関東で雪が降っていなくても、北陸ではご轟々と雪が降っているなんてことは当たり前なのです。

 そして主人公が滞在する駅周辺の町は、現在の越後湯沢駅です。昔から三国街道の宿場町として、また温泉の出る町として発達してきました。現在でもガーラ湯沢をはじめとするスキー場が栄える観光都市です。

 そして雪というものは寂しさを伴うものです。特にそのさみしさは、湯沢のような小さな宿場町では一層際立ちます。人通りの少ない駅のホームに汽車が雪煙を上げて到着し、降りるのは自分ひとり…。駅の入り口は車掌と数人以外誰もおらず、ただ僅かな街灯が深々と降る雪を照らしています。物語はそのような雪景色を背景に繰り広げられるのです。

 「雪国」という作品は、ここまで知っておかなければとても余裕をもって読めるような代物ではありません(むろん、ここまで想像力と読解力で補える場合は問いませんが、なかなかできることではありません)。関東と北陸の気候的事情、越後湯沢の町、そして雪が心へもたらす感情。これらすべてを理解して初めて、「雪国」への扉が開かれるといっていいでしょう。それほど「雪国」は奥深く、また難解なのです。

島村

 主人公である島村は、仕事もなく親の遺産を東京で食いつぶしている存在でした。仕事になるのかならないのかもよく分からない、フランス文学の翻訳などをして過ごしています。そんな彼がある年の12月、汽車に乗って越後の湯沢に向かいました。すると電車の中で、なにやら元気そうな女の子に出会います。彼女は別に島村と知り合いというわけではありませんが、どうやら島村と降りる駅が同じようです。そして彼女は、病人らしき男を連れていました。

 旅館に着いた島村は、芸者として働いている駒子を呼びます。彼女は島村と違い、とても貧相な身の上です。東京に一度は売られた経験を持っています。現在芸者として働いているのは、病気のいいなずけを養うため。何もかも恵まれている島村とは、まるで異なる環境でした。

 そもそも島村と駒子が出会ったのは、5月のことでした。今では雪に覆われているこの街ですが、5月のころは山々には若葉が茂り、空は青く澄み渡っていました。島村はこの街に山を歩くために訪れ、宿屋で芸者を呼んだところ、三味線を持って来たのがまだ見習いだった駒子でした(芸者を呼ぶほど余裕があるという点で、島村の財政的事情を伺うことができる)。駒子としばしの時間を楽しんだ島村は女を呼んできてくれと頼みます。しかし、駒子にあっさりと断られてしまいます。

 ところがその日の晩、酔っぱらった駒子が島村の元にやってきました。立つこともできず、ゴロゴロと転がりながら島村に絡んできます。帰れと島村は言いますが、もうしばらくこうさしといて、という彼女を止めることができません。駒子の肌は雪のように冷たく、また自分の着物も恐ろしく冷え切っていたのでした。これが島村と駒子の出会いです。

 ある日の昼、島村が雪の中を歩いていると、駒子に家に誘われました。しかし、家に行ってもいいのか島村は気になりました。島村は、駒子が病人らしき人を迎えに出ていることを知っていたのです。一緒に連れ添っていた別の娘もいたことも知っていました。電車が同じで、たまたま島村はその娘のことを気になっていたのです。

 なぜ話さなかったのかという駒子に対して、島村はただ「細君(いいなずけ)かね。」と問いかけます。どうやら駅で見かけた娘(葉子)も駒子とは知り合いのようでした。

しかし、病人がいいなずけであることを駒子は否定します。しかし、その日に按摩から聞いた話によると話が違うのです。島村はここで初めて、駒子が自身のいいなずけの病気が原因で芸者となったことを理解しました。どうも島村は話を按摩から聞いている途中、落ち着きませんでした。いつどこで駒子が聞いているかもわからないからです。

墓参り

島村と駒子は、しばらくのあいだ一緒に過ごしていました。しかし島村が帰る日になって異変が起こります。病気のいいなずけがついに危篤状態になったという一報がありました。

駒子は今すぐにでも駆け付けなければなりません。しかし、駒子は人を死ぬところを見るのなんて嫌だと、このまま島村を見送ると言って聞かないのです。島村はこの言葉を薄情ととらえるか愛情ととらえるか迷っていましたが、「ねえ、あんた素直な人ね」という駒子の言葉にわけもわからない感動を覚えてしまい、そのまま駒子に駅まで送られて行きます。列車は旧式のものが2、3両しかつながっておらず、電燈も暗く相変わらず物悲しいのでした。

島村が再び駒子の元を訪れるのは、それから2年後の秋のこととなります。いいなずけはこの世のものではなくなっており、島村と駒子は二人で墓参りに出かけます。駒子はなぜか嫌がっていました。そして、墓には葉子もいました。

その後しばらく、島村は湯沢に滞在しました。当然駒子との時間も増えていきました。そんな中、葉子が島村の元へとやってきます。葉子はどうやら、東京に行きたいようでした。どうやら真剣なようで、島村に連れて行ってほしいといいます。しかし東京に行ったところで、何をするかとなってもあてがあるわけでもありませんでした。からからと笑う葉子に、島村はたとえようのない虚しさを感じてしまいました。葉子はまだ、駒子のいいなずけのことを忘れられないようでした。

葉子は「駒ちゃんをよくしてあげて下さい」言い出します。島村は何も返すことができません。すると葉子は急に泣き出し、「駒ちゃんは私が気ちがいになるというんです」と言い、さあっと出て行ってしまいました。島村は、なぜか例えようのない寒気を覚えるのでした。

天の川の火事

 島村は、東京のことなど忘れたように湯沢に居続けました。彼には一応妻も子供も仕事もあるのですが、そんなことはどうでもいいかのようでした。

 そんなある日、街で火事があります。火元は葉子もよく出入りをしている、映画の上映会をしていた建物です。島村は駒子と二人で火元へ向かいますが、消火設備は明治前の古いもので、建物はどんどん燃えていきました。吹き上げる火の粉は空に広がる天の川に飲み込まれるように散り、島村もまたその中に入り込むような心境を得ました。

 するといきなり、建物の二階から女が一人落ちてきました。島村はびっくりしたものの、何かしらの感情を得ることはありませんでした。それを得るにはあまりに女が二階から落ちる光景が非現実的だったのです。

 するといきなり、駒子が叫びました。落ちた女は葉子だったのです。駒子が落ちた葉子の元に駆け寄り、続いて島村もそれを追いかけました。

 「この子、気が違うわ。気が違うわ。」

 島村はそう叫ぶ駒子に近寄ろうとして人垣に押されてよろめきました。ふと目を上げると、夜空には天の川が島村へと流れ落ちるように広がっていました。

あとがき:夕景色の鏡

 以上が「雪国」の要約となります。この作品は、実は改訂されて現在の形になりました。もとは「夕景色の鏡」という題名で、トンネルを抜けると雪国であったという冒頭の文章も初稿にはありませんでした。

 「夕景色の鏡」、この表題は実に奥深い名前です。これは冒頭のシーン、主人公が雪に移った葉子を、窓を通して見つめているというところから取りました。

 …どういうことか良く分からないと思うので詳しく説明します。電車に乗っていると、自分のシルエットが窓越しに移ることがありますよね。冒頭のシーン、島村は元気よく話す葉子をこのシルエットを通して見つめていたのです。おそらくですが、直接見つめることが憚られた結果でしょう。

 この「鏡」を通して最初の出会いがあった。それも雪と夕景色に彩られた汽車の中で、です。川端はここまで考えて文章を作っているのですね。実際に読んでみると分かるのですが、作中にはしばしば「夕景色の鏡」または「鏡」という言葉が恣意的に使われることがあります。初稿時のタイトルを意識しつつ、島村の精神世界に冒頭のシーンの記憶が刻まれていることを表現したかったのでしょう。

川端の表現しようとしている文学の奥深さが、少しでもわかっていただければ幸いです。しかし、なかなか難しいですね。もとより小説など、心で読むものであって頭で読むものではありません。少なくとも私のような20歳の若造にとって、この男と女の物語はなかなか不可解で難しいものなのです。